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『僕はイエス様が嫌い』のあらすじと予告編動画
祖母と一緒に暮らすために、東京から雪深い地方のミッション系の小学校へ転校することになった少年ユラ。
日々の礼拝に戸惑うユラの前に現れたのは、小さな小さなイエス様だった。
他の人には見えないけれど、願い事を必ず叶えてくれるイエス様を信じ始めたころ、ユラに大きな試練が降りかかる…。
(引用:『僕はイエス様が嫌い』公式サイト)
『僕はイエス様が嫌い』の動画を観た感想
『僕はイエス様が嫌い』の動画を観た感想を書いてみたいと思います。
主人公は小学5年生のユラ。
ユラにとって、今までの自分の人生の中で縁もゆかりもなかったキリスト教という価値観の中にいきなり放り込まれ、戸惑いながらも何とか理解し、順応しようという様子が瑞々しく描かれています。
少年が実際に感じる、不安、希望、喜び、絶望などの感情がリアルに描かれているんです。
こんなにも少年の感情がくっきりと繊細に描かれている映画は今までなかったんじゃないかと思えるほど見事で美しかったです。
本当に素晴らしい映画でした。
大人の都合でいきなり転校させられ、それまで通っていた東京の小学校とは正反対ともいえるような、雪深い地方のミッション系小学校に行くことになったユラ。
小学校内には至る所にキリスト教が存在しています。
そんな環境や、毎朝、礼拝したりお祈りしたりすることにも、どう接してよいのか最初は戸惑うユラ。
不安で、ある意味で空虚な生活だったのが、カズマ君という親友ができることで、一気に彩り豊かな楽しいものへと変容していくのですね。
カズマのお母さんは熱心なキリスト教信者です。
ユラの目から見ると、一日中お祈りしているかのように思えるほどの熱心な信者だったのですね。
カズマのお母さんはとても優しくユラにも接してくれます。
そしてユラの目から見ると、一日中笑っているように見えるのです。
ユラのお母さんは、キリスト教信者ではないからお祈りはしないし、そんなによく笑う人でもないので、その正反対とも言えるようなあまりの違いを不思議に感じるのですね。
感受性豊かなユラにとって、その二つの点は、うまく言葉にすることはできないけど、どこか違和感があり、不自然に感じていたのです。
その違和感、不自然さは、カズマが車に轢かれて突然死んでしまうことで、一気に露呈します。
カズマの家は、父親が子供や家庭のことなど全く顧みない人でした。
そのような家庭環境で、カズマの母親は、いつも笑っていられるような精神状態では全くなかったわけです。
無理にでも笑うことで、何とか幸せだと自己暗示のようにすることで、精神状態を維持していたのかもしれません。
そしてそれは信仰面でも同じことだと感じます。
満たされない人生や生活を何とかしたいと、神様にすがるような気持ちで信仰にのめり込んでいたのかもしれません。
神様にすがりつくような信仰。
ユラは、無意識的に、そのようなある種の嘘くささ、真理とは程遠い状態を嗅ぎ取っていたわけですね。
そしてユラにとって、もう一人、どこか信用できない存在がいたわけです。
それは小学校の担任の先生です。
どこか信用できない、心を完全に開くことできない存在であったわけですが、カズマの死に際して、それが明確な形となって表れます。
カズマが死んですぐ、「献花」と称してカズマの机に花瓶を置いた先生。
死んだからすぐに献花して弔うという、そのあまりにも形式的な振る舞いに、ユラは何とも言いようのない居心地の悪さ、不誠実さを感じるのです。
「人を想う気持ちというのはそんなもんじゃないだろう!」
と心の中で感じていたんだと思います。
献花以外にも、カズマが事故にあった時、自分たちにできることはお祈りだと言って、とにかくみんなでお祈りしようとする先生。
もちろん、誰にとってもできることなどほとんどないわけですが、何でも「お祈り」で片付けようとする先生のその単純さ、鈍感さ、凡庸さ、底の浅さみたいなものをユラは感じ取ったのだと思います。
「先生、お祈り、意味なかったです。。」
と小声で呟くように言ったユラ。
「え?」
とだけ答え、ユラに対して、何も本質的な事は言えない先生。
まだ5年生の子供なので、自らの違和感をしっかり言語化できるには至っていないわけですが、そのような諸々の先生の言動を目の当たりにして、無意識ではあるわけですが、ユラは先生をある意味で「軽蔑」しているという雰囲気を僕は感じました。
ユラが違和感を持った身近な二人の大人。
でもそれは、他人への批判というだけではなく、自分自身にも返ってくるわけです。
小さな自分だけのキリストに向かって、「友達が欲しい」「お金が欲しい」といった、利己的で俗物的なお願いをしていた自分自身。
その利己的で俗物的な願いが叶えられたということによって、神を信じていた自分。
そしてカズマを助けてほしいと願ったけど、その最も重要な願いは叶えられずカズマは死んでしまった。
神への逆恨みのような感情も抱いていた自分。
そのような自分自身の不誠実な心の持ち方は、担任の先生とある意味では同じなのではないか。
繊細な感受性で、そのあたりのことを感じ取ったユラは、自分なりにそのように理解することで、次のステップへと進むことができたのではないでしょうか。
担任が飾った献花を捨てて、カズマが好きだったラッキーカラーの青い花を自分で買って入れ替えたユラ。
自分で考え、絶対にそうすべきだと思ったし、そうしたかったから。
その瞬間、ユラは間違いなく一歩前へ進むことができたのだと思います。
家族の中で、両親よりもおばあちゃんに心を開くことができ、本音を話すことができていたユラ。
そのおばあちゃんが、死んでしまったおじいちゃんの子供じみた癖について、ある時話してくれたんですね。
その癖とは、何度も何度も障子に指で穴を開けるということ。
その話を聞いた時、その意味も分からず、何の気にもとめていなかったユラ。
でもカズマが死んでまだ心の整理がついていないある朝、ふと思い立ち、布団から起き上がり、指で障子に穴を開けてみたんです。
その小さな穴から向こう側を覗き込んだ時、ユラの表情に久しぶりに笑顔が戻ったのです。
絶望の淵に沈みこんでいたユラに、わずかな希望をもたらしてくれた障子の穴の向こう側に広がる風景。
いったいユラには何が見えたのでしょう。
少し痴呆が始まっていたようにも見えるおじいちゃんが、死ぬ間際まで止めなかった子供じみた奇癖。
不自由な状況の中、唯一、その小さな穴から向こう側を覗くことが、おじいちゃんの希望、心の解放につながっていたようにも思えます。
そしてユラは、絶望的な心境になったときに初めて、そのことを身をもって理解することができたのではないでしょうか。
カズマが死んでしまったという残酷な事実。
それをどうしても心の中で整理できなかった、
それがラストの美しいシーン、カズマと一緒に美しい光に溢れた校庭でサッカーをしている光景は、ユラがカズマとの関係性を肯定的に捉え直すことができたことを示唆しています。
カズマとの思い出を、自分の中でそのように昇華できるに至ったのは、障子の穴の向こう側の風景がユラに何らかの影響を与えたのは間違いないでしょう。
そしてそれは、今までの自分の神との向き合い方からは間違いなく次元の異にした、洗練された、真理に少し近づいた、神との向き合い方とも言えるのではないでしょうか。
ユラのそのような成長、自分の力でそのような境地に至ったこと、それが示唆される美しいラストシーンは本当に感動的でした。
映画でも小説でも、昔から取り上げられる普遍的なテーマです。
そのような壮大なテーマを、ユラというまだ5年生の感受性豊かな内面を瑞々しく描くことによって、見事に表現し切ったこの作品『僕はイエス様が嫌い』は傑作だと感じました。
『僕はイエス様が嫌い』の受賞歴、監督紹介など
『僕はイエス様が嫌い』は、カンヌ・ベルリン・ベネチアに続いて権威のある国際映画祭とされるスペインのサンセバスチャン国際映画祭(第66回)にて、最優秀新人監督賞を史上最年少となる22歳で受賞という快挙を達成。
その後もスウェーデンのストックホルム国際映画祭(第29回)において最優秀撮影賞を受賞、また、中国のマカオ国際映画祭(第3回)ではスペシャル・メンションを受賞。
フランス・スペイン・韓国で劇場公開が決まっている話題作。
監督・撮影・脚本・編集を手掛けたのは、新鋭映画監督・奥山大史(おくやまひろし)。
青山学院大学在学中に制作した本作が長編デビュー作。
超低予算の制作費の中、子供たちの自然な演技を導き出した演出、的確に対象をとらえるカメラワークなど、様々な点で今後が期待されています。
(引用:『僕はイエス様が嫌い』公式サイト)
奥山大史監督は、あるインタビューでこのように答えていました。
イエス様が嫌いだと思っていたわけではないんですけど、実際にすごく信じたときがあって、嫌いというよりも、なんかもういいやと思ってしまった時があったんですよね。
自分に都合よく解釈するものではないなと気づいたという出来事があったので。
だから、自分に都合のよいイエス様との別れと、最後に本当の神様と出会ったのかな、どうなのかな?というところで終わる映画にしたかった。
まさに、監督の意図通りの映画に仕上がっていますよね。
ユラが、「自分に都合のよいイエス様」と決別し、そして最後のシーンでは、「本当の神様」に出会えたように僕には感じました。
この素晴らしい映画が、大学在学中に超低予算で撮られたと聞いて、本当に驚きましたね。
奥山大史監督の作品をこれからも見続けていきたいと僕は思いました。
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