映画『MOTHER マザー』。
7月3日から劇場公開となりました。
とても楽しみにしていたので、初日の最初の回で観てきました。
まず感想を一言でいうと、完膚なきまでに打ちのめされましたね。
強烈な破壊力を持った映画でした。
あまりに強烈な衝撃を受けたので、感情のほとばしるまま、映画『MOTHER マザー』の感想と考察を書き連ねたいと思います。
大森立嗣監督の前作、『タロウのバカ』も凄かったです。
『タロウのバカ』は大森監督が本当に昔からずっと撮りたかったという渾身の作品だけあって、こんなにも凄い映画があるのか、、と心底驚いた感覚が今でも残っています。それほどの作品でした。
『タロウのバカ』は、確かに「世界の摂理」に触れることができている、と感じるような稀有な芸術作品でした。
そして今回の『MOTHER マザー』。
徹底的に突き抜けた作品であった『タロウのバカ』に比べると、『MOTHER マザー』は大衆向けのエンターテイメント要素が盛り込まれた映画になってるんじゃないかと勝手に予想していました。
でも、そんな僕の浅はかな予想は木っ端みじんに砕け散りました。
『MOTHER マザー』
物凄い映画でしたよ。
『タロウのバカ』とはまた違った視点から、「世界の摂理」に触れようとする大森監督の並々ならぬ覚悟が深く感じ取れる作品でした。
非常に重たく、観るのが辛くなる、心がヒリヒリするような映画ですが、正真正銘の芸術作品であり、「絶対に観た方がいいよ!」と多くの人に強く推薦したい映画です。
『MOTHER マザー』を観た感想と考察
ではここから、『MOTHER マザー』の感想と、考察を深めていきたいと思います。
まず、主人公の母親・秋子を演じた長澤まさみが素晴らしかったです。
そして秋子の息子・周平を演じた奥平大兼(おくだいらだいけん)が、もう最高に素晴らしかったですね。
彼の演技が、この映画の「悲惨さ」を何倍も高めることに成功していたと感じました。
映画の中でも語られていましたが、この秋子と周平の親子は「共依存」関係にあるわけです。
それもそこら辺ではなかなかお目にかかれないような強烈な共依存。
共依存の強度というのは、その環境の悲惨さ、劣悪さによって劇的に高められるものだと思いますが、この親子もまさにそうなのでしょう。
周平のけがをした膝を舐める場面が象徴的でしたが、そのように異様なほどの執着を持って愛する一面がまずあります。
そしてその反面、自分の息子とは思えないほど、口汚くののしる、罵倒する、怒鳴り散らすという一面もあるわけです。
そのように、感情を極端から極端へと揺さぶるというのは、典型的なマインドコントールの手法ですよね。
秋子は無意識ではあるんでしょうが、日常的にマインドコントロールと同じ形のコミュニケーションを周平と取っていたことになるのですね。
そのようなマインドコントロール的コミュニケーションが、物心つく前から日常的に続くという本物の生き地獄。
そこから自分の力だけで抜け出すことなど、周平だけじゃなく誰にとっても不可能なのは自明でしょう。
子供への強烈であり、歪な執着心が表出される場面が何度もありましたが、「私の子供!」と叫ぶ場面が印象に残っています。
子供たちが、私の所有物だというような感覚がヒシヒシと伝わってきました。
周平のことを、「私の分身」だと答える場面もありました。
また、児童相談所職員の高橋亜矢(夏帆)に激怒した場面も強烈でした。
周平の妹・冬華のことを、亜矢が「冬ちゃん、またね」とあだ名で呼んだのですね。
その瞬間、秋子は「お前、何様のつもりだ!」と烈火の如く怒ったのです。
周平も冬華も、優しいお姉さんである亜矢の事を深く信頼し、誰よりも心を許す存在へとなりつつあった、まさにそんな時でした。
秋子には、自分の子供が、自分以外の存在により深く懐くことへの「恐怖感」「嫌悪感」があったのでしょう。
自分たちだけの世界が壊される、と。
それは周平が学校へ行きたいと言った時もそうでした。
「お前は臭いからみんに嫌われている」
と口汚く罵ったのですね。
自分の子供が外部の世界へと接触すること、外部から介入されることを極度に嫌っていたのです。
狭く閉じた環境をずっと維持しようと思っていたのですね。
お金欲しさに、自分の両親の殺害を、自分の息子にそそのかすという悲劇。
もちろん、ただ単純にお金が欲しいということじゃなく、本当にお金が底をつき、誰からももらえるあても完全になくなり、もうこのままでは死んでしまうというところまで精神的に追い込まれているわけです。
自分と子供が生き延びるために、自分の両親を「殺せ」と息子をそそのかす。
その悲劇的な出来事をいったいどのように考えればよいのか。
自分はパチンコするか、家でゴロゴロするかだけで、仕事は一切せず、常に誰かに寄生して生きている秋子。
秋子と関係を持った男たちは、秋子の淫靡な魅力に吸い込まれるように秋子の体を求めていました。
そのような男の習性を知り尽くしたような秋子は、常に男に寄生していたわけです。
そして寄生できる男がいなくなった時、成長した息子・周平に寄生するようになるのです。
ケータイ代とパチンコする金がなくなると、周平に給料を前借させようとするのです。
まだ小さい頃から、大人になるまで、周平を道具のように使って色んな人からお金をせびり続けた秋子。
秋子の指示で、祖父母のところへお金をもらいに行った事がありました。
その時、あんなに優しかったおばあちゃんが、鬼のような形相で、絶叫しながら縁を切ると叫び狂ったのです。
おばあちゃんに自分自身の存在を罵倒されるほど辛いことはないでしょう。
周平にとってそれはまさに地獄のような状況だったでしょう。
秋子の元へと戻り、「お金はもらえなかった。」と報告すると、今度は秋子にボロクソに罵倒されるのです。
そして周平は「もう一回行って来ようか?」と言うのです。
秋子を失望させる事よりも、あの地獄のような体験をもう一度するほうが、周平にとってはまだ心の負担が軽いという恐ろしい事実。
そこまで歪まされてしまった周平の心の状態を思うと心が痛みます。
この親子にとって、それは生きるために小さい頃からずっと続けられてきたサバイバル術でした。
そのサバイバル術の行きついた果てが、おじいちゃんおばあちゃんを殺すということ。
お金をせびるという行為の延長線上に、両親を殺すという行為が地続きになっているという悲劇的事実。
普通は、そこには絶対に超えられない境界線が存在していて、それを超えるとなるととてつもなく大きな飛躍が必要になるわけです。
でも追い詰められた精神状態であった秋子にとって、その境界線はちょっとしたら飛び越せるほどのちっぽけなものでしかなかったのですね。
そして自分は手を下さずとも、忠実な「自分の分身」がそれをやってくれるわけですから。
「このままだと冬華は死んじゃうよ」
「できるの?できないの?どっち?」
と、秋子にどんどん追い詰められていく周平。
自分が母を失望させてしまう事を何よりも恐れて育った子供時代。
その長年の蓄積が、最悪の結果へと至ってしまったわけです。
「こんな母親でも僕にとって世界(すべて)」
この映画につけられたキャッチフレーズです。
学校にも行かせてもらえず、社会との接点を断ち切られ、極端に狭い世界に閉じ込められ続けた周平。
感受性豊かで、人一倍優しい、そんな周平だからこそ、このような最も悲惨な結末を迎えてしまったのではないでしょうか。
もう少し単純で、もう少し利己的な性格であったなら、このような地獄の底まで母親に付き合うことはなかったんじゃないか。
誰よりも優しいからこそ、地獄の底まで母親に付き合う羽目になってしまったという悲劇。
もちろん母親の秋子だって、冷徹だから親を殺せと子供に命じたわけではないのです。
生き残るための道がどんどん閉ざされていき、いよいよ本当に希望がなくなりかけた時、誰かが死ぬことで自分たちが助かりそうな時、そこに突っ走ってしまうことは、決してあってはならないけどあり得ないことじゃないしょう。
秋子は悪魔のような冷徹な存在であったわけではなく、自分を捨てて逃げた男、遼(阿部サダヲ)が借金取りに殺されそうだと聞き、危険を冒してでも救おうするような「優しさ」も持ち合わせているわけです。
そして秋子がそのような「優しさ」を持っていることは、周平が誰よりも深く知っていたでしょう。
無茶苦茶な母親ではあるけれど、「か弱さ」と「優しさ」を持っている母親。
そんな母親を放っておくことなど周平にはできなかったのでしょうね。
貧乏ながらも、よくやく安定した生活を手に入れられそうになった途端、そこから出ていく母親を見捨てることができず一緒についていってしまう周平。
身も心も健全に離れることができず、母親を見捨てられないという思いがあると同時に、母親から離れることで自分自身も大きな不安に襲われるという未熟な部分が残ってしまっている周平。
そこから悲劇が生まれてしまったわけです。
そして、そんな秋子と周平を目を凝らしてじっと見つめてみると、それは何も特殊な関係ではなく、自分自身にもそのまま突きつけられる問題でもあることがわかるのです。
これほど極端ではなくても、無意識的に、自分たちだけの世界に閉じ込もるような選択をしている親は多いですよね。
それはある種の「恐れ」なのでしょう。
秋子よりはかなり小さな、微々たる恐れだとしても。
そのように子どもを閉じ込めれば、より忠実に、自分の言いなりにできる確率は高い。
その事実を無意識的に察知して、知らず知らずのうちに外部との接触を少なくして、結果的に家族の中という閉鎖空間に閉じ込めている。
未熟で自信のない親ほど、その傾向が強いのではないでしょうか。
その極端に振り切れた事例が秋子であるわけです。
そのように、秋子がモンスターのような特殊な存在なのではなく、その種を持っている人は本当に多いということ。
というか、大なり小なり、すべての人が持っているということなのかもしれません。
ちょっとした環境次第で、その種が大きく育ってしまう可能性は十分にあるということ。
秋子と周平を見ていると、そのような恐ろしい真実を突きつけられているような気持ちになりました。
祖父母を殺した罪を一人で背負い込んだ周平。
一言、「母親から指示された」と言いさえすれば、自分の量刑は圧倒的に軽減されると分かっていても、絶対に言わなかった周平。
母親に、口汚く罵られ、反倫理的な要求をされ、そしてそれによって自分の人生がほぼ壊されてしまうほどの罰を受けることになった周平。
それでも、
「母のことが好きだから」
と答える周平。
その言葉の絶望的な重みに、ただただ打ちのめされてしまいました。
ある精神科医のこの言葉が、映画を観た後、頭に浮かんで離れませんでした。
「親である」ということ、「子供である」ということ、今まで当たり前のように感じてきた常識的感覚が、根底から揺さぶられるような、そんな感覚に陥りました。
「今まで当たり前だと感じてきた価値観が揺さぶられ、その作品に触れる前と触れた後では世界の捉え方が変わってしまう。」
そのようにさせるのが芸術作品だとはよく言われますが、そうだとするとこの映画『MOTHER マザー』は間違いなく深い深い芸術作品と言えるでしょう。
そんな感覚を、ぜひ多くの人にも味わって欲しいと思い、『MOTHER マザー』を観た感想、考察を書いてみました。
しばらく『MOTHER マザー』が頭にこびりついて離れることがない日々を過ごすことになりそうです。
映画『MOTHER マザー』のあらすじ
男たちとゆきずりの関係をもち、その場しのぎで生きてきた女・秋子。
シングルマザーである彼女は、息子の周平に奇妙な執着を見せる。
周平に忠実であることを強いる秋子。
そんな母からの歪んだ愛の形しか知らず、それに翻弄されながらも、応えようとする周平。
周平の小さな世界には、こんな母親しか頼るものはなかった。
やがて身内からも絶縁され、次第に社会から孤立していく中で、母と息子の間に生まれた“絆”。
それは成長した周平をひとつの殺害事件へ向かわせる??。
何が少年を追い込んだのか?事件の真相に迫るとき、少年の“告白”に涙する。母親・秋子を演じるのは、長澤まさみ。
今年で女優生活20周年をむかえる長澤が、役者として、一人の女性として、秋子というミステリアスな役柄に挑み、
母親という存在の闇と奥深さを体当たりで表現している。
17歳の周平役には、映画初出演にして初めてのオーディションで大抜擢された新人・奥平大兼。
そして、秋子と内縁の夫になるホスト・遼を阿部サダヲが演じているほか、
物語を彩る個性豊かな登場人物を、夏帆、皆川猿時、仲野太賀、木野花らが演じている。
『新聞記者』(19)、『宮本から君へ』(19)の映画会社スターサンズと『日日是好日』の大森立嗣がタッグを組み、
実際に起きた事件に着想を得て、新たな物語として紡ぎ出す衝撃作『MOTHER マザー』が、遂にベールを脱ぐ。
(引用:『MOTHER マザー』公式サイト)
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