野村克也さんがお亡くなりになりました。
選手としても素晴らしい実績を残された野村克也さんですが、その後、監督として当時は弱かったヤクルトスワローズを優勝させた実績問いjを記憶している人が多いんじゃないかと思います。
古田敦也さんなど、野村克也さんの卓越した配球理論を受け継いで素晴らしい捕手になりました。
野球界に残した功績は計り知れないでしょう。
そんな野村克也さんの思い出として、僕が強く印象に残っているのが、伊藤智仁(元投手)に謝罪した際の映像なんですよね。
※(YouTube動画が削除されてしまいました。)
古いプロ野球ファンなら、伊藤智仁という名前を忘れることはないでしょう。
「天才投手」という呼び声の高い、本当に素晴らしいピッチャーだったんですよね。
150キロ以上の伸びのあるストレートと共に、伊藤智仁投手のトレードマークは「高速スライダー」でした。
真横に滑るように変化する独特の「高速スライダー」は、本当に誰も打てなかったんですよね。
古田敦也さんもインタビューで答えていました。
「もしチームメイトではなく敵だったら、あのスライダーは絶対に打てなかった。見逃すしかないでしょう」と。
歴代最高投手とも言われるほどの伊藤智仁投手。
でも伊藤智仁投手の「旬の時期」は一瞬で終わってしまったんですよね。
野村克也さんがヤクルトスワローズの監督をしていた1993年。
周りの反対を押し切って、ドラフト1位で伊藤智仁投手を獲得したのです。
野村克也さんの目に狂いはなく、伊藤智仁投手は1年目から素晴らしい投球を披露するのですね。
オールスター前までに7勝2敗、防御率0・91、平均奪三振は1試合10個以上と、誰もがなし得ない成績を残すわけです。
1年目ですからね。驚愕の成績です。
伊藤智仁投手は、このまま歴代最高投手への階段を順調に上っていくだろうと誰もが思っていた矢先、巨人戦で最悪の事態が発生してしまったのです。
試合途中に右肘靱帯を損傷してしまい、もうあの最高の輝きは戻る事はなかったのです。
芸術的とまで称された、あの「高速スライダー」を観ることはできなくなったのです。
ヤクルトスワローズは、そこまで選手層が厚くはなかったのですね。
その戦力で勝ち進んでいくためには、伊藤智仁投手がとにかく投げ続けなければならなかったのです。
野村克也さんは、伊藤智仁投手に全幅の信頼を置き、とにかく投げ続けさせました。
当時は球数制限などもなく、先発投手の使命は完投することだと言われていた時代です。
投げに投げて、伊藤智仁投手の右肘は壊れてしまったのです。
野村克也さんはその事を伊藤智仁さんにどうしても謝りたいと思っていたんですね。
「俺が伊藤を潰してしまった。」という痛恨の思いをずっと胸の内に秘めていたわけです。
それがテレビの企画で2018年になってようやく実現したわけです。
伊藤智仁さんに素直に謝罪する野村克也さん。
それを受けて、「怪我は自分の責任だと思っている。監督のことを恨んだことなど一度もない。」と答える伊藤智仁さん。
「怪我をしたとしても、それでも途中で変えられるほうが嫌だった。」と続けて語るのです。
この場面はまさに涙なしでは見る事ができませんでした。
伊藤智仁さんの言葉を聞いて、ホッとしたように笑顔を浮かべる野村克也さんの表情がとても印象に残りました。
今から振り返ると、野村克也さんが亡くなる約2年前の出来ごとになるわけです。
お亡くなりになる前にこのような機会があって、野村克也さんは心底ホッとしたのではないかと思います。
そして伊藤智仁さんも、野村克也さんからそのような言葉を聞けて、全く恨んでないとしても胸のつっかえが取れるような思いだったのではないでしょうか。
受け答え全て、その態度全てが侍のようだった伊藤智仁さん。
そんな侍を使い続けた野村克也さん。
当時はそのような、「熱い気持ち」「気合い」といったようなものが優先される時代だったんですよね。
その時代のせいで失われた大切なものが確かにあったわけですが、このような素晴らしい物語も跡に残ったわけです。
野村克也さんがお亡くなりになっても、このような素敵な記憶は永遠に残り続けると思います。
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